両墓制(りょうぼせい)とは
昭和56年9月1日発行 常磐公民館文化部編集 「常磐誌」 第三篇第三章第五節
小岡のサンマイは、新しくできた仁尾バイパスの稲積橋の麓にある。バイパスと交叉しもうすぐ海に出る財田川の土手から観音寺に入る旧道とのまん中に少し小高くなった所にある。白い河原石を盛り上げたサンマイが稲穂の波のむこうに秋の陽を受けてこんもりともりあがっていた。
秋祭りになると村境のその道をチョウサがいく。チョウサの後についていった子供心にもなぜかその白い河原石が心の奥底に残っていた。というのも私の部落のサンマイには土を盛り上げて拝み石をひとつ置くだけであった。そして、年が経つにつれて、どこの墓も石塔が建つのに小岡のサンマイに小石が相変わらず盛り上がっているのは不思議に思えた。ところが、その素朴な形がわが祖先の信仰のふるさとであることなど知らなかったのである。
柳田国男氏はこのように言う。仮に我々が両墓制と呼んで居りますもの、是は日本数十万の部落を土着の時期によって二つに分け、古い半分しかそれも追々に滅び去ろうとして居ります。それは、死を送った野辺をできる限り早く見棄てて、別に便宜の地に永遠の祭場を設けようとするもので現在の多くは石塔を立てていますが石工の進まぬ前はただの林地であり又は樹であり・・・云々と、今日、墓と呼ばれているものは遺骸や遺骨の葬地であるとともに、その霊を祭るための祭地でもある。埋葬地をすぐに祭場とする単位墓が一般の習わしである。それに反して、その埋葬地を比較的早くうち棄てて別の祭地においてその霊を祭る習わしがある。埋葬地としての埋め墓と祭場としての参り墓を総称して両墓制というのだが全国で約六十箇所に達しているという。
なぜこうした習俗が起こったかということであるが、われわれの祖先に古くは霊魂と肉体を分離して考える信仰があったからではなかろうか。人は息が絶えると肉体から霊魂が抜け出してしまうと考える一方で死骸の穢れを畏れる観念の強かったことが他方で土葬を採用しながら両墓制の如きものを開いたと思える。武田明氏によるとそうした両墓制がよく発達しているのが香川県であるといい、今、両墓制があるのは小豆島をのそいて西讃地方が主で三豊郡、仲多度郡の土地であるという。
名称はハカという言葉が両方に用いられているが、第一次墓地の埋め墓を呼ぶものに最も多いのは三昧(サンマイ)である。小岡でも埋め墓はサンマイである。その他、県内では志々島のステバカ、佐柳島のウスメバカなどの呼び方は人々の感覚をよくあらわしていると思う。第二次墓地である参り墓のことをラントウバというのが多いが小岡ではセキトウ(石塔)の他に、移し墓を意味するヒキバカ、トリバカというのは面白い。そうしたヒキバカ、トリバカに移すのは三回忌、七回忌、十三回忌などが多いという。その時に埋め墓のサンマイの墓標である小形の自然石であるオガミ石(拝み石)や土をもってきて石塔の下に埋める。これが出来ると、普段お参りするのはヒキバカである石塔にお参りするからセキトウというのであろうが庶民の墓地に石塔を立てはじめたのは近世以降で普及しはじめたのはよほど年代が降りてからだという。だとするとヒキバカの原形、すなわち祭地はどんな形をしていたのであろうかと思う。なお、サンマイにお参りする期間は今はあいまいで彼岸、法事、月の命日などの時に参ると。
小岡のヒキバカは荒神さんの本殿の裏側の地つづきのところにあって部落に接している。「小岡、小村で住みよいけれど・・・」という小唄を古老から聞いたけれども小岡は昔より二十軒、三十日雨が降れば水が出るという。大正九年の大水の時などは荒神さんを残して水に浸ったという。ヒキバカの直ぐそこまで水が来たのである。そして、約200メートルほど離れたサンマイは水に流されて拝み石が見え隠れしたという。大抵、第二の墓地であるヒキバカは人里近くにあり、時には屋敷内に設けられることもあった。地蔵堂の周りや寺の境内に置かれて参拝の都合のよいところにあった。それに比べて第一の墓地である埋め墓のサンマイは人里をより離れた野の外れ、谷の奥や砂浜などが選ばれている。県内でも島嶼部(トウショブ)では風雨によって流失しそうな海辺の波打ちぎわにあり、内陸部では土砂の崩壊によって埋没しそうな山麓地帯の山の斜面にある。
小岡部落がいつの頃から開けたかは定かでないが財田川の下流域で河原石を野積にしたサンマイ、水が出ると見え隠れするサンマイを見たり東讃の牟礼(ムレ)の海岸に水葬の痕跡があるなどと聞くと、私などが思うのはおこがましくはあるが黄泉(ヨモツ)の国が海の彼方にあったのではないかという幻想にかられる。幼な心にではあるがその川上にある部落の埋め墓が河原の中にあった記憶を確かめてみたいと思う。
いま、小岡を歩いてみると人家は百軒は越し宅地化がどんどん進み、地元の人すら墓の名称をわすれてしまいつつある。そして、野積みの河原石の上にすでに三つ、四つと石塔が立ちブルトザーでならして墓地にしようという話を耳にする。小岡には弓を引かない珍しい百手(モモテ)がある。そして、東の村境に本山寺の塔から高木馬之助の引いた弓の矢が落ちたところに高木神社がある。民族の豊かな小岡からわれわれ祖先の信仰の対象のひとつが衰微しようとしているのは時の流れとはいえ惜しいことである。
「著者推測 当時常磐公民館運営協力委員会会長 故嶋田彦一氏」