加麻良神社と立泉寺、そして地元史の源左衛門

隣町に「加麻良神社」が存在します。神社管内には小字(こあざ)集落が複数あり、その中に小岡荒魂神社、高木神社、村黒荒魂神社などが存在します。これらは加麻良神社の摂社として在りますので興味のある方は研究してください。
 ここでは、横山源左衛門という人物を紹介することで、地元史の一部、加麻良神社、立専寺などの由緒を感じてもらいたいと思います。
 織田信長が討たれた本能寺の変(1582.6.2)、これより少し前の当地も、長宗我部元親が四国統一に邁進中の戦国時代でした。土佐と阿波の大勢を制覇した元親は、1577年(天正5年)に、讃岐に展開せんがため、雲辺寺(66番札所)に立ち寄ったと記録されています。
その時この地は、室本町の九十九山(つくもやま)に細川氏政が城を構え、その家老職に横山源左衛門長知(げんざえもんながちか)が存在しました。
 細川氏政の史料には、生誕年不詳、1579年元親に敗れ討死、讃岐九十九山城主、と記録されていますから、元親が下見のため雲辺寺に立ち寄った1577年の翌々1579年までに落城の歴史があると思います。
 家老横山源左衛門長知は、流岡町の加麻良神社において長宗我部元親と休戦調印した人物として神社記録に残っています。また、伝承では、源左衛門は、元親によって焼き払われた加麻良神社を再建したこと、合せて流岡町の立専寺を創建したことがあります。立専寺創始については、昭和61年発行「観音寺市誌(資料編)」に記載されているので、次に転記します。
立専寺
所在地:観音寺市流岡町大字流岡字北川原680番地
宗派:真宗興正派
寺号公称:慶長元年(1596年)
由緒:長宗我部元親が讃岐攻略のとき、1581年(天正9年)、九十九(つくも)城(じょう)の家老横山源左衛門は流岡に逃げ、世の無常を悟り出家して、正祐と号し当寺を創始した。岩谷阿弥陀仏(恵心作という)の石像や添え状があり、琴引(ことひき)八幡宮(はちまんぐう)の鐘楼(しょうろう)が1877年(明治10年)当寺に移築されている。

源左衛門の子孫

 源左衛門本家伝承の系譜により、末裔を確認済。小岡、及び隣町に在住も個人情報は記しません。家紋は「三柏」。
 蛇足:当サイトを作成する私自身の祖先は、立専寺創始の約90年後の1675年(延宝3)2月に初代の法名が確認でき、その19年後の1694年(元禄7)10月に没っした與左衞門の法名記録に「当家開起(の人物)」とあり、家紋は、三柏に蔓を加えた「丸に蔓柏」としています。家紋は、分家などを契機に変化を加えるものとの伝承に整合しますから、源左衛門の関係が濃厚と考えています。