荒魂神社の由緒

小岡には神社が多いなあ、と言われますが、加麻良神社との関係に疑問符を付ける人は少数です。レアな疑問ですが判明しました。
神社用語の整理
 先ず、本社・摂社・末社・分社の区別から記載します。明治時代の定義です。
分社とは、本社の祭神の分霊をいただいて別個に祀るが、必ずしも本社の支配を受けるものではなく、独立した神社として経営されます。
摂社(せっしゃ)とは、本社の祭神の后神(きさきがみ)、御子神(みこがみ)、荒御魂(あらみたま)、社地の地主神、その他由緒ある神を祀っている神社を言い、本社の支配を受けます。
末社は、本社の支配があるものの摂社以外のものです。
摂社と末社は、本社の境内と境外の2種があります。
⑤そして、荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)を示します。これは、神の霊魂が持つ二つの側面のことです。荒魂は、荒ぶる鬼の側面。勇猛果敢、且つ、新しい事象や物体を生み出すエネルギーとして妙用で、反面非常に祟り易い魂です。和魂は、優しく平和的な側面であり仁愛・謙遜等の魂です。荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、別々の神名となる場合が多いとされています。一霊二魂とも言えますが、一霊四魂の定義も存在し、これは和魂がさらに幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)に展開されます。
小岡荒魂神社の考察
 さて、小岡荒魂神社は、地元史誌に「素戔嗚尊」を祀るとあります。社殿付近には小さい祠があり、喜久間神社のご神体と地神様の二柱が祀られているとの推定がありましたが、この二柱はさておき、小岡荒魂神社は、摂社に該当するかどうかを考えます。
先ずは、瀬戸内沿岸地方に盛んであったとされる「荒神信仰」によるものかどうかを考えましたが、その多くは、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼ぶ場合があり、集落毎に独立した意味合いを持ちます。また現社殿の大きさからもイメージし難く荒神信仰には該当しないと思います。
 それよりも、先人から「荒神さんは女の神様やから百々手がない」と聴いているにもかかわらず、地元史誌では祭神を「素戔嗚尊」としていて、且つまた、村黒町本村の荒神さんと同様の管理下にあり、双方とも加麻良神社より宮司が訪れ神事を行う慣習があります。このことは次の推測が成り立ちます。
 小岡荒魂神社は、加麻良神社の摂社であったからこそ、小岡の神が后神だと勘違いして女の神様だと子供などに解説した。当地は、江戸時代以前より人命が犠牲になるような財田川の氾濫など災害もあり、鬼門に位置する加麻良神社本神の荒魂を祀り鎮守とする必要があった。
外部の由緒書き
 そして、更に上記に一致した情報として、管理者の記載が見当たらないのですが「五十猛命ホームページ」の一角に小岡の荒魂神社の由緒書きを見付けました。この由緒書きは、「摂社」の定義を理解していないと腑に落ちないと思います。加えて、常磐誌には神官が記載されていて、これが加麻良神社の神官と同一人物です。上記推測がこの2点で裏付けされ、摂社であることを断定するに至りました。
「五十猛命ホームページ」   
荒魂神社 観音寺市村黒町 松井病院西側
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
その摂社 喜久間神社「五十猛命(いそたけるのみこと)」
由緒 讃岐国刈田郡の延喜式内小社の加麻良神社の境外摂社である。刈田郡には紀伊郷・坂本郷があり、紀氏や同族の坂本臣が居住していた。五十猛命を祀ったか。加麻良神社は子供の守護神として、夜泣きを止めるとして篤く崇敬されてきた。伝説に依れば、神代の昔二宮村の氏神(大水上神社)の許に小彦名命が来て毎夜泣き叫ぶこと甚だしく、大水上神社は木マスを作りて小彦名命を乗せて水に流した。流れ着いたのが加麻良神社の現在の鎮座地と言う。時の人、この神を祀ろうと言い、流岡の地名はこれによると言う。荒魂神社は加麻良神社の摂社、喜久間神社はその摂社であり孫に当たる。
お姿 荒魂神社は207坪。面白い形の木の他にはあまり木のない神社。二祠が覆殿に納められている。どちらかが喜久間神社であろう。
「常磐誌」
小岡荒魂神社
所在地 大字村黒字西屋敷772番地
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
神官 吉田富重 西田喜男

 

時間的な制約から現宮司に確認しませんが、この様に小岡荒魂神社は加麻良神社の摂社であって神霊は一体である可能性が極めて高いと言えます。

 

補足 加麻良神社の由緒
先代宮司からの表現
ご祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の2座。
大己貴命は、大国主神の青年の頃の名前で、大地の偉大なる神霊を意味し、国造りの創造神・農耕を司る豊穣神・方除(ほうよけ)・地鎮の神(とこしずめのかみ)・福徳を授ける神・愛と誠と慈悲の神・生産神です。少彦名命は、病難を救う医薬の祖神であることから子供の健康祈願や夜泣き祈願で有名です。
社格(常磐誌より)
延喜式内讃岐国24社の1、延喜式神名式に讃岐国刈田郡小加麻良神社とある。明治5年、郷社に列せられる。
神官(常磐誌に掲載時)
吉田富重 嘉永元年12月11日生
西田喜男 明治32年5月21日生
夜泣き守護の守(常磐誌より)
上記荒魂神社の由緒中に出て来る記載と全く同一の内容。末尾に(西讃府誌)とあるので、双方ともに西讃府誌を記載根拠にしていることが解る。
ついでに高木神社について
 一方、高木神社の伝承は、もっと明確に残っています。高木馬之介という弓の名人がいて「自分が死んだ時は、この矢の落ちた所に埋め、墓所としてもらいたい。さすれば、諸人の悩みを聞いてやろう」と言って、本山寺の五重塔の上から西に向けて矢を放った。その矢は飛び続け遠く小岡に落ちた。そこで部落の人達が、その武勇を讃えて、後、高木神社としてお祀りした。
 一ノ谷川にかかる堂免橋の南端から東方向に少し歩けば、松の木を残した三角形の遊休地があります。元々は、そこに矢がささり神社がありましたが、昭和49年の一ノ谷川拡幅工事に伴って、堂免橋の北側の県道5号沿いに移転し、現在では、通学する高校生の目を慈しむような樹木に囲まれ鎮座しています。